進化、二つのThe Origin


関西医科大学 教養部 物理学教室

元教授 岩井鶴ニ


 TVのコマーシャルを見ていると、車もパソコンも進化するらしい。お茶の間番組では、女性タレントが,それでは洗濯機がどんなふうに進化してきたかを見てみましょう、などと言っている。どうやら、進化という言葉がはやっているようだ。生物の進化、生命の進化、星の進化、宇宙の進化という言葉は聞いたが、今や、車もパソコンも、洗濯機までが進化するご時勢になったか。進化というとき、たいていは何十億年から何万年のタイムスケールを思い浮かべるだろう。しかし、インフルエンザウィルスとかバクテリアなどは彼等自身の生き残りのために、年単位あるいはそれ以下で進化しているようだし、少なくとも分子のレベルでは進化の実験が出来るようにもなった。だから、車にしろ、パソコンにしろ、或いは洗濯機にしろ、市場経済で生き延びるための製品生産には、改良とか開発とかよりも、進化の方が似合っているようだ。ダーウインの自然選択を人為選択に置き換えれば、進化がぴったりかも知れない。

 そんな気になるのは、最近読んだ二冊の本のせいだろうと思う。表題にあげた二つのThe Originがそれで、一つは、
  Charles Darwin: On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life (1st ed. 1859)1) ;
  ダーウイン著、八杉龍一訳「種の起源」上、下(岩波文庫, 1990)1)
今一つは
 Stuart A. Kauffman: The Origins of Order, Self-Organization and Selection in Evolution (1993).2)である。以下は、これらの本に触発されて、生物進化の周辺をさまよった、僕の徒然草である。

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 齢古希を過ぎると、なんとなく人間のルーツを辿ってみたくなる。そんな気が働いて手に取ったのが、中学生でも知っている、ダーウインの本である。たまたま原著のファクシミリ版を入手したので、訳本と併読することにした。ところが実際に読み出すと、こんなに難渋する本も珍しい。よく言えば懇切丁寧、悪く言えば冗長で必要以上にこみ入っていて、忙しい現代人の読書ペースにはとても合いそうにない。それこそ、しょっぱなから驚かされる。例えば、飼育栽培での変異(第1章)に出てくる、イエバトの品種についてのパラグラフを見たらいい。20種ほどある品種のすべてがカワラバトに由来するという確信にゆきつくための理由を幾つかを述べたくだりが、原書では約4ページ、訳本では6ページ余りにわたっている。しかもその論旨の進め方が、もしそうでなかったらどんな不都合がおこるかという帰謬法である。以下には、推論、観察、推論、、、の網目が延々と続く。真面目に読もうとする門外漢なら何回も行ったり来たりの堂々巡りを繰り返すことになる。一方、ダーウイン自身はと言えば、このやり方は他の場合にも応用できるので、ここで簡単に述べておこうとすましている。だから、こんなペースについて行けずに諦めた人も多かったに違いない。多忙、多忙とますます加速する現代の趨勢を思うと、「種の起源」は残念ながら、読まれざる不朽の名著という烙印を押される運命にあるのかも知れない。だが、この最初の関門を過ぎると読み手も大分慣れてくるものだ。小人はちゃっかりと手抜きのコツを覚える。兎も角、僕は推論の迷路に紛れ込んで立ち往生したときには、躊躇なく、すっ飛ばすことにした。しかし、曲がりなりにも読み終わってみると、これは誠に壮大なシナリオで、それに匹敵するものといえば、宇宙の進化か創世紀の神話が思い浮かぶぐらいである。

 優れた古典がそうであるように、「種の起源」はいろんな読み方がされてきたようだ。思想の書として読むとき、先ず宗教との対立が起こった。確信と信心との対立では決着がつかぬ。ガリレオが地動説を唱えたときのように宗教裁判とまではならなかったが、ファンダメンタリズムを色濃く残すアメリカの一部の州では、未だに進化論を教えない高校もあるという。輪廻転生とか、生々流転とか、一寸の虫にも五分の魂といったアニミズムに満ちた世界で育った、大江健三郎のいう、あいまいな日本人の、僕などには想像を超える。

 ダーウイン自身は人間の祖先が猿だったとはどこにも明言していない。しかし、種は不変のもので、それぞれ別々に創られたとする創造論者(Creationist)に対する批判をいろんな章で展開している。殊に後半の第9章から第12章にわたる、化石の地質学的記録とその地理的分布を詳述するくだりでは、創造論者の抱いていた種不変の神話を覆すことに専念すると言ってもいいほどの精力を費やす。共通祖先の仮説は彼の進化論の根幹だからである。進化を信じる少数派の一人だったダーウインは、十分な理論的武装をして主流派に立ち向かわねばならなかったのだろう。素人目には、リンネ以来の分類学が生きものを綱、目、科、属、種の階層構造に分類してきたことを考えれば、共通祖先の概念へはあと一歩に思えるのだが。しかし、この一歩が正にコペルニクス的転回だったのだろう。「種の起源」は当時それだけの革命的なインパクトを持っていたわけである。

 勿論、「種の起源」は神話でも小説でもなくて、自然科学書である。しかし、物理屋のはしっくれの僕には、こんな自然科学書も珍しい。扱うのが進化だから当然だろうが、実証がない。生物学者には自明かも知れないが、僕には「種」そのものの定義が曖昧である。大半が定性論で、定量的な扱いは、子を一頭残すとしたときの等比級数的増加をゾウの場合に見積もったり(第3章)、イングランド、ウィールド地方の地層の侵食作用による削剥(denudation)期間を見積もったり(第9章)、或いは、ダーウインやその他の博物学者がやった実験結果など(第11章)、一つ二つと数えあげることができるほどである。数式はなく、図はたったの一枚(第4章初出)。だが、こうならざるをえなかったろうと思う。ダーウイン自身が折りに触れて述べているように、当時、遺伝は全くのブラックボックスだったし、発見された化石の数も少なく、しかも、それらが発見された地層の放射能物質による年代測定は次世紀まで待たねばならなかったのだ。これでは進化速度など、とても見積もれる状態にはない。むしろ、こんな無い無いづくしの条件で、よくも統一的な生物世界像を築き上げたものだと感心する外ない。

 「種の起源」には、知らない、分からない、自分が無知であることすら知っていないなどと、まるでソクラテスなみの言葉が出てくる。そんな思慮深い彼を想像すると、彼とほぼ同意見のウォーレスからの論文投稿の依頼を見なかったら「種の起源」も彼の頭の中に仕舞い込まれたままであったかも知れない。ことに遺伝については、不透明で考えも混乱していたろう。だが、一方では、ビーグル号航海以来二十数年間の思索と観察が彼の頭のなかには詰まっている。共通の祖先種から微少な自然選択(natural selection)の積み重ねによって種の分岐(divergence)が起こるという骨組はほぼ固まっていただろうし、その弱点も見えていたに違いない。彼自身その序文で、不完全なアブストラクトだと言っている。自然科学の論文では、それを作り上げるための足場は取り払って澄ました顔だけをみせるのが普通だが、「種の起源」はそんな体裁を採らない。開いた本であって、図らずも研究の具体的な過程を詳細に、しかもfairに見せてくれる。

 僕たちは黎明期の科学に、洗練された実験や観測を期待してはいけない。ダーウインはじめ当時の博物学者のやった実験や観測は素朴で、読んでいて誠にのどかで楽しい。だが、それから引き出される論議は彼の優れた洞察力を示している。ダーウインの記述をゆっくり辿らないとその醍醐味が味わえないので残念だが、二、三の例を挙げてみよう。身近にあるヒースの丘で、一方が木柵で囲われ、他方がそのままで放置された場合、25年間でそれぞれの植生が著しく変わったことを述べる(第3章)。タネを明かせば、牛が入れるかどうかの違いだけだ。ここから生物間の相互作用が如何に複雑に絡み合ってくるかを推論する。それこそ風が吹けば桶屋が儲かる式の話だが、紛れもなく今のエコロジーの先取りである。ハニカム構造の巣作りをする蜜蜂の観測などファーブルの昆虫記を彷彿させる。これから巣作り本能の自然選択による進化を考える。さらに中性アリの事例から、自然選択とは違った進化要因を唱えた、ラマルクの用不用説を否定するあたりは見事な推論だ(第7章)。或いは、数十種類の種子を海水に4週間ひたし、その中の何種類が発芽するかを試している(第11章)。これを読んだとき僕は島崎藤村の椰子の実の詩を思い出したものだ。これが、しかし、大洋島に植物が放散分布する推論につながり、今の社会生物学につながってゆく。こんな事例は枚挙にいとまがないほどで、形態学、個体発生学の萌芽(第13章)も含めて、「種の起源」は、以後の生物学諸分野の派生、開花につながる、大小さなざまなテーマの宝庫と言ってよい。上で、開いた本と言ったのはこのことをさす。

 別の側面にも触れてみよう。例のウィールド地方の削剥期間をダーウインは3億年と推定した。地球の誕生がこれよりも以前に溯る長いタイムスパンだとは当時の科学者の誰が想像したろうか。微少な自然選択の数千世代に亙る積み重ねで、種の発端の変種が生まれるという想像をだれがしただろうか(第4章)。また、生物の地理的分布から、氷河期の放散を推理し、さらには大陸移動説寸前まで想像の翼を広げるのだ(第11章)。先にたった一枚の図と言ったが、これがまた実によく考えられている。今でいう系統樹の雛形だが、一読して振り返って眺めると、種の分化も絶滅も、それに起因する属、科の形成も、太古の地層に発見される化石の分布(第10章)も、生物相互の類縁(第13章)も、この図に凝縮されている。ダーウインは何枚も画いては棄て、画いては棄てる繰り返しを楽しんだろう。じっと眺めていると、優勢な種の繁栄と君臨や、生きた化石の細々とした生き残りも見えてくる。生存闘争、自然選択などのキーワードも思い浮かんでくる。現在の小枝から溯ってゆけば、共通の祖先を尋ねる途方もない旅を想像することも出来る。

 こんな風に思いを巡らせてゆくと、先に述べた、読み手を難渋の世界に引き込む錯綜が、裏返せば、推論と観察の狭間でダーウインが格闘した泥沼の反映に見えてこないだろうか。それがまた、なんとも執拗である。これが正に研究というものの実体だろう。しかも、ダーウイン自身が終章の冒頭で、この本全体が一つの長い物語であると述べているように、全編にわたって各章の推論と観測事実が有機的にリンクしていて、まるで彼の頭の中の思考と記憶のネットワークを覗く思いがする。研究をこよなく愛した麻酔医学者の畏友、内田盛夫さんが酔っ払うと、決って「種の起源」を若い医学生に読ませたいと言っていた真意が今にして理解できる。そして、年寄りになって読んだ僕は、よく考えたな、よくぞ発表する勇気を出したな、偉かったなとダーウインを偲ぶ。

 「種の起源」第1版から既に130年余りが経っている。遺伝学の基礎が確立し、集団遺伝学が生まれ、ダーウインの進化論は、ネオダーウイニズムとして、洗練された姿に変貌する3)。進化の要因は自然選択一つに絞られる。今西錦司のいう正統派進化論による、ダーウイン進化論の矮小化である4)。さらにワトソン、クリックのDNA発見で、遺伝物質が明らかになるとともに、遺伝情報は、DNA→蛋白質と一方的に流れ、蛋白質→DNAの流れはないというセントラルドクマが確立されて、後天的に獲得された形質の遺伝を主張した、ラマルクの用不用説は敗北する。蛋白質、DNA,RNA の突然変異が測定できるようになり、分子進化の新分野が生まれる。木村資生の分子進化の中立説が誕生したのが 1968年5)。カウフマンの本はこの25年後の出版になる。

供ゥウフマンの「秩序の起源」

 この本は分子生物学研究室のセミナーに参加して読んだ。杉野義信さんに誘われるまでは、著者も書名も僕は知らなかった。ぺらぺらとページをくっていると、Life exists at the edge of chaos. という言葉が目に飛び込んできて読む気になったのである。週1回のセミナーは時々の中断はあったが足掛け3年にわたり、最近ようやく読み終えた。本を紹介されただけでなく、その都度出てくる、分子生物一般について教えを受けた3年間は、僕にとっては幸運な、楽しい3年間だった。先ずは杉野さん、森田正之さん、研究室の学生諸君にお礼を言いたい。

 さて、上記のthe edge of chaosに出てくるカオス(chaos)というのは、1960年代に生まれた、数学、物理、化学、生物が同じ土俵で議論が出来る、新しい研究部門である6)。例えば、現象を単純な要素に分けて調べようとする、所謂還元主義の物理では、ニュートンの法則に従う、ごくありふれた振り子の運動にしても、場合によっては、周期の定まらない、複雑で一見でたらめな運動をすることがあるのを発見して驚きが走った。非線型の項がある以外はごくありふれた運動方程式に、予測不可能な怪物が潜んでいたという驚きである。これがカオスの一例だ。一方、もともとが複雑な系を扱ってきた生物は、複雑な生物現象の中にも、ad hocではない、何か単純な普遍的法則がひそんでいるかも知れない、それを発見できないか、という期待の眼でカオスを捉えた7)。同じ「混沌」でも、見る立場によって、認識がまるで正反対になるのが面白い。カウフマンは勿論後者の立場である。そして、研究の手法は系を構成する要素間の相互作用を考慮に入れた、所謂協同現象を扱う統計物理学の立場をとる。

 自然選択だけが進化の要因だとすれば、ヒトを含めて現在の生物はすべて歴史的な偶然の産物になる。本当にそうだろうか。ニュートンの法則のように、何か、歴史的な偶然とは無関係な普遍的な法則が進化の過程に隠されていないか。これがカウフマンの発想だ。それが秩序(order)の法則だと彼はいう。そして、いささか我田引水のきらいがあるが、ダーウイン以前リンネに溯る当時の形態学者の心情を忖度する。彼等は普遍的な、形の法則(Law of Form)を探求し、それが発見できれば、それによって種の階層構造を理解し、統一的生物観を確立したかったのだと。例えば、水を見るがいい。温度を下げてゆけば、全く自然に、水蒸気が集まって水になり、さらに氷の結晶になるではないか。水分子は誰の手も借りずに、自分自身で秩序正しい氷の結晶を作る。つまり自己組織化(self-organization)によって氷の結晶という秩序(order)が生まれるではないか、とカウフマンは説く。無機の世界ではいろんな形をした結晶がある。しかし、そんな何十万、何千万の、種々雑多な結晶でも、構造と対称性に注目すれば、少数の結晶群に分類することが出来る。生物の世界でもそれが可能ではないか、というのがカウフマンの期待だろう(勿論、生物の秩序体としては硬い結晶ではなくて、シュレーディンガーのいう可塑性の結晶体をイメージしている8)。物理の世界では非歴史的な普遍的法則で足りる。しかし、進化を伴う生物の世界では、ダーウインの自然選択は避けて通れない。かくして、カウフマンは自然選択と自己組織化の結婚を目指すと宣言するのだ。

 カウフマンの本は読み進むほどに、異端のアイデアに満ちているのが分かってくるが、「種の起源」に比べると決して有名ではない。だから、先ずはその基本の骨組みを紹介しよう。

§1 適応度地形図(Fitness Landscape; Chapter 2)

 N個の遺伝子からなる系(ゲノム系)を考える。各遺伝子座には優性か劣性かの対立遺伝子が入る。優性を1劣性を0で表せば、ある特定の状態は、例えば(0110010111、、、)といった数列で表せて、可能な数列、従って、可能な状態は全部で2N個になる。これは莫大な数で、例えばN=100としても、1の後に0が30個もつくような数だ。このゲノム系をもった個体はこの中のどれかの状態にある。次に各状態に適応度(fitness) を割り当てる。適応度というのは、個体がおかれた環境にどれほど適応しているかの目安(もっと詳しくいえば、どれほど多くの子孫を残せるかの目安)だ。各状態をたとえば、東経何度、北緯何度の格子点に対応させて、その各点で適応度を高さにとれば、山あり谷ありの「適応度地形図」(fitness landscape)がえられる。ただし、状態の配列の仕方で地形図の様子も変るから、ある格子点の隣には1遺伝子だけ違った状態をもってくる。例えば、(000)の隣には(001)、(010)、(100)がくるように配列する。こうすると1遺伝子変異は隣の格子点へ移動することに当たる。

 さてこうして出来上がった地形図を想像してみよう。仮にどの遺伝子でも1状態が0より適応度が高いとすると、この場合頂上は(11111、、、)とすべて1の状態で、そのすぐ下に1遺伝子だけが変異した状態、例えば(01111、、、)、(10111、、、)、、、さらにその下には(00111、、、)、、といった状態が続く。だから、地形図は富士山のようになだらかなスロープをもった山になり、一番の低地は(00000、、、)である9)。このとき自然選択は頂上を目指す山登りであり、突然変異は勝手気ままな彷徨である。そして、個体の集団はこの山の斜面に点在する塊にたとえられる。たまたま、ある個体が突然変異で高度を上げるのに成功したら、集団もそれに引きずられて登って行く。だから自然選択は適応進化の駆動力であり、突然変異の多くは山登りを引きずり降ろす作用をする。とも角、1遺伝子変異で得る適応度の増加は微小(おおよそ1/N))だから、その積み重ねによって適応進化が起こることになる。これはダーウインのイメージとぴったり合う。先にふれた集団遺伝学のダーウイニズムが正にこの場合である。だが、これで万事目出度しとはゆかないぞとカウフマンはいう。

 上に見てきたのは、N個の遺伝子がすべて独立していて、相互に影響を与えない場合である。実際には遺伝子の間には相互作用があるだろう。中には多くの遺伝子に影響を及ぼすものもあればまったく影響しない遺伝子もあろう。平均として、1遺伝子に対しK個の遺伝子が相互作用すると仮定する。これがカウフマンのNKモデルだ。勿論相互作用の詳細は極めて複雑で分かっていない。どの遺伝子が全体としての適応度にどれほど寄与するかも分かっていない。だから、各遺伝子の適応度寄与 w(i=1,2、、、N)は、相互作用を考慮したうえで、0,1の間の乱数を割り当て、その総和をNで割った数を各状態の適応度fと定義する10)


 こうして各々の遺伝子状態、例えば(10011010、、、)に、それぞれの適応度が決まり、状態空間に適応度地形図を描くことが出来る。

 カウフマンはKの値をいろいろと変えた場合に地形図がどのように変ってゆくかを計算機シュミレーションによって調べた。その結果、K=0の富士山の場合とは違って、多くの山あり谷ありの複雑な地形図になった。しかし、Kが小さいほど滑らかな地形で、高い山が連峰として連なり広い裾野が開けているのが見られた(K=2)。こういった地形のある一点から出発して突然変異の試行錯誤を繰返しながら山登りをするのが自然選択による適応進化である。地形が滑らかな場合には、山登りも比較的スムースに進むだろう。一つ一つのステップで稼ぐことができる高度差はわずかだろうが、着実に登ってゆくだろう。連峰のどれかに足がかりができれば、サミットも近い。このような場合にはダーウイン流の微少変化の蓄積による進化が成り立つと言ってよい。

 ところが、Kをさらに増してゆくと、山の総数は急速に増え、山の高さは低くなり、起伏に富み、K=N-1の極端な場合には、平均でf=0.5の、起伏の激しい凸凹の地形になった。こんな低い山が乱立する凸凹の地形では、ごくわずかのステップでどれかの小山の頂上には達するものの、それ以上の改善は見込めない。K=N-1の極端な場合には、山の総数はN=100として大凡1028あり、その一つ一つを当たってグローバルな最高の山を探し当てようとすると、宇宙開闢から始めたにしても全然時間が足りない11)。こんな極端な場合でなくても、この傾向は同じで、ダーウイン流の進化は望めそうにない。Kが大きいということは、一つの遺伝子に沢山の遺伝子が相互作用することを意味する。足の引っ張りあいが多すぎて、碌なものしか出てこない、小田原原評定ではなんの進歩も見込めない、といったところか。

 それでは、もっと広い範囲に亙っての探索法はないか? ある(Chapter 3)。有性生殖の場合の遺伝子組み換え(Recombination)がそうで、一度に多数の遺伝子の状態を変えることが出来る。地形図でいえば、long jumpが期待できるわけだ。しかし、神ならぬ身では地形図全体を見渡して行く手を決めることは出来ず、全く盲目のジャンプだけが許される。だから long jump ではより高い山に当たるメリットも増すが、深い谷へ落ち込むリスクも大きい。運良く山に当たったとしても、次に高い山を目指そうとすると、その試行錯誤には倍の時間がかかるのだ。こういった倍々ゲームで事態は益々困難になる。

 結局のところは、お互いの足の引っ張り合いが比較的少ないK=1, 2 という、滑らかな地形図が自然選択による進化には適していることになる。

 カウフマンはこのNKモデルを駆使して、ダーウインの時代には分かっていなかった、カンブリア紀爆発とペルム紀の絶滅に続くリバウンド12)や、免疫系の成熟 (maturation)13)を論じている(Chapter 3, 4)。ときにはマユツバな話になるが、斬新なアイデアが面白い。

§2 自己組織化と秩序性(Chapter 5)

 さて、いよいよ、自己組織化の話に入る。

 NKモデルでは、各遺伝子がお互いに他のK個の遺伝子から入力(制御)信号を受け取る。だから、全体として見れば、N個の要素が結びあったネットワークと考えることができる。Kが大きい場合には要素間を結ぶ結線が密で、Kが小さい場合には疎な結合になる。K=0の場合には結線がなく、K=1の場合には結線は入力に1本、出力に0か1本という案配だ。各要素は活性(on)か不活性(off)かによって、それぞれ1か0かの値をとるものとする。入力を受取った要素は1か0かの応答をすることになるが、そのルールを知る必要がある。具体的には、遺伝子制御系のスイッチング・ルールを知りたいわけだが、現在のところごく限られた系14)以外はまるで分かっていない。カウフマンはこのルール作りに、論理計算のブール代数を使う。K入力値のあらゆる組み合わせを考えよう。 例えばK=2の場合には、入力は(00)、(01)、(10)、(11)の4通りがある。一方、この情報を受け取る要素は0か1かの状態にあり、そのどちらかで、さらに違った応答が可能である。従って可能なルールの総数は2=16通りがある。入力を受取った各要素は次の瞬間には、このルールの中のどれか一つに従って0か1かの応答をすることになる。どのルールに従うかはランダムに決めておくのである(random rule)。カウフマンはこのようなネットワークをブール式ネットワーク(Boolean Network)と呼ぶ。N個の豆電球でクリスマスツリーを飾ったイルミネーションを想像したらいい。予め各電球の点滅はでたらめにセットしておいてスタートする(random sampling)。その後は何の手を掛ける必要もなく、唯々、なるにまかせて眺めているだけでよい。ルールに従って各電球はon/offの応答をし、イルミネーションの点滅のパターンは順次変ってゆくだろう。

 さて、どんなパターンが現れるだろうか。K=0の場合には、一度スイッチを入れた途端に点滅のパターンは決ってしまい、その後は同じパターンを持続する。つまり完全な秩序が保たれている。K=1の場合にはスイッチをいれると、各電球は一見でたらめな点滅を繰り返しているが、すぐに、ある決った点滅のパターンに落ち着く。その様相はN個の系全体が幾つかのパーツ(点灯している一群、点灯していない一群、交互に規則正しく点滅を繰返す一群)から組み立てられているように見える。この場合にも秩序の状態が実現する。

 ところが、K>2の場合だと、様相は一変する。各電球の点滅が始まると共にイルミネーションのいろんなパターンが次々に現れ、何時までたっても特定のパターンに落ち着くことはなかった。つまり、無秩序、混沌、カオスの状態が現れたのである。さらに興味があったのはK=2の場合で、スタートと同時にon かoffかに状態が決った電球の数が次第に増えて行き、 終には大部分の電球はonかoff かの一定の状態に落ち着く。そして、この一定した状態に包囲される形で、他の少数の電球が点滅のパターンを繰返していた。あたかも、1か0かに凍結した氷海の所々に、凍っていない海水が孤立しているようなパターンになったのである。Kの値を3,4,5と増すに従って氷海の部分は急速に縮まり、逆に大海に氷山が浮かぶような光景になった。

 カウフマンはK=2の場合について、更に詳しく調べた。シミュレーションで、ある一つの定常的なパターンが現れたとしよう。このパターンで、どれか一つの電球の、点滅の状態を変えるか、応答のルールを変えたとき、殆どの場合(80-90 %)には、同じ元のパターンに落着くことが分かった。これはある1遺伝子に突然変異が起こったにしても、同じ秩序状態に戻ることに対応し、生命恒常性(Homeostasis)を反映している。このように、違った状態が多数あっても、いずれは決った一つの状態に落着くという現象は、エネルギーと物質の出入りがある、散逸系ではよく知られた現象である。落着く先の状態をアトラクターといい、そこに落着く多数の状態の領域を吸引圏(Basin of attractor)という。例えば、お椀に入れた球は縁を振動しながら終には底に静止する。底がアトラクターで、お椀の内面すべてが吸引圏だと思えばいい。いまの場合には一寸ばかり複雑なアトラクターで、一つの終状態といっても、一部の電球は点滅を繰返している。しかし、それを詳細に追ってゆくと、ある一定のサイクルで元の状態に帰ってくることが分かる。このようなアトラクターをリミットサイクルといい、戻ってくるまでに遍歴した状態の数をサイクル長という15)。N=20から1000までのシュミレーションの結果、このサイクル長はN1/2になった。このことは、N=100の場合、先きに見たように、2100=1030通りの可能な状態があるが、その中で、たったの1001/2=10個の状態に、自発的に収まったのが、アトラクターだということになる。カウフマンはこれが自己組織化だという。結晶化という言い方もしていて、無機界の結晶とは違って、固定した状態ではなくて、多少の状態を経巡る、いはば、柔らかい結晶というシュレーディガーのイメージに対応させる。先に1遺伝子変異での殆どは元のパターンに戻ると言ったが、残りの10% ほどは、別のパターンに落着く、つまり別のアトラクターに吸引される。アトラクターの総数をシュミレーションで当たってみると、N=20で4、N=60で8、N=100で10といった具合で、N1/2になった。これらはお互いによく似ていてパターン活性の違いは数%程度である。これらのことからカウフマンは個体発生での細胞分化を想像する。生命体は卵から細胞分裂を繰返して、腸なら腸、肺なら肺といったそれぞれ固有の機能をもった細胞に分化してゆく。この間どんな種類の細胞も同じDNA、つまりゲノムを内包している。細胞の種類によってその発現が違うだけだ。アトラクターの種類はこの細胞の種類に対応するというのがカウフマンの主張である。DNAの構造は下等生物からヒトに到るまで連綿と続いている。イースト、藻類、かび、海綿、くらげ、環状動物、ヒトなどについて、ゲノム数Nと細胞種の数との関係をプロットしてみると、N vs N1/2の関係に近いことがわかった。例えば、ヒトではN=10で317のアトラクターが予想されるが、実際には254の細胞種といわれている。30億年の生物進化の歴史に現れたいろんな種の間に、進化とは無関係な普遍則の片鱗を見たときカウフマンは心躍ったに違いない。

 この結果をまとめると、K=0,1,2 の場合には自己組織化が起こり、自発的に秩序の状態が発現する。ただし、K=0,1では秩序状態は固く、K=2の場合にはより柔らかい状態である。K>2になると秩序の発現は弱まり、無秩序、カオスが発現する。Kを増してゆくに従って、あたかも、固体(氷)→液体(水)→気体(水蒸気)の相転移が起こるのだ。固体では環境の変化に対応できない。気体では個体自身の秩序が保てない。いずれも死の世界だ。液体で始めて自身の秩序を保ちつつ、環境の変化にも対応できるフレキシビリティが得られる。かくて、Life exists at the edge of chaosというわけである。随分長くなったが、これでカウフマン理論の骨組の紹介を終る。あとはその応用である。これが生命の起源から始まって、代謝系、個体発生、細胞分化、生態系、さらには社会学、経済学と極めて多岐に亙っている。正に才気煥発といったところで、いささか唖然とする。例えば、ダーウインが自然選択を考えるときに、人為選択からの類推から出発したが、カウフマンはプランニングの概念を導入して生産市場の進化を生物進化になぞらえる。こうなると脳の役割も考慮に入れる必要が出てこよう。僕としては一つのエッセイとして読みとばすしかない。その他を紹介するのは又の機会にしよう。

 最後に自然選択と秩序の関係を考えておこう。いずれの場合もK=2がキーポイントである16)。適応度地形図は滑らかな連峰で自然選択が成立しやすい条件を満たす。一方、秩序性では、フレキシブルな自己組織化が実現し、種々の小摂動に対しても耐えられる構造をとることができる。さらに、ここでは触れなかったが、共進化についてもシミュレーションをやっていて、共存する生命体は、各々の適応度を共生によって高めあいながら、共にカオスの端(K=2)に向って進化してゆく傾向が暗示される(Chapter 6)。生物集団は、カオスの端のきわどい状態でその共存を保っているというわけだ。どうやら、カウフマンは自己組織化のお膳立てが先ずあって、その上で自然選択が有効に働くと言いたそうである。だが、彼が目指した、自然選択と自己組織化の結婚はこれで目出度く達成されたかといえば、答はノーだ。例えば、秩序性でN1/2個の自己組織体が可能だとする。この個々のアトラクターは地形図の個々の山に対応するのかという素朴な疑問が生まれかも知れない。だが、その対応は全くつかない。いずれも統計的処理をするから対応しないのが当たり前といっているのではない。両者は同じNKモデルと言っても全く別のカテゴリーに属するからだ。早い話が、アトラクターは上に見たようにリミットサイクルで、地形図での一つの格子点には対応しない。サイクル長が10なら10個の格子点を巡回する状態に対応するだろう。地形図で考えた適応度が 総合的でstatic なイメージとすれば、アトラクターは個別的でdynamic なイメージだ。上にみたNゲノム系でアトラクターはカウフマンの比喩に従えば、生命体を構成する細胞種に当たる。一方、適応度はその個体が環境と折り合って如何にうまく子孫を残すかの目安であって、アトラクターよりもずっと複雑な概念である。本能、学習等の働きをどう取り入れて行くか、適応度という概念にひそむ目的論とどう折り合いをつけて行くか、など問題は山積している。別の見方をすれば、生命の歴史科学に、ようやくにして複雑性の科学がアタックを始めたといったところだろう。カウフマンはその意味で紛れも無く先駆者である。

 複雑系の科学は現在のところ、計算機シミュレーションの申し子みたいな様相を呈している。従って、ヴァーチャルリアリティの世界で、実体とは結びつかぬではないかという批判は当然起こってくる。カウフマンの自己組織化といったところで具体的な実体とは直接結びつきそうにない。それでは自然科学に咲いたあだ花に過ぎないのだろうか。そうかも知れないし、そうでないかも知れない。カウフマンは蛋白質の進化で、新薬の開発についての具体的な提案を示している。それがうまく行くかどうかを試すのが、差し当たりの手がかりになるだろう。自然科学では、いろんな手法が試されてよいし、ましてや、複雑系を対象にする限り、そうならざるを得ないと僕は思う。

 ホモハビリス(man the able)は自分を知るために、ホモルーデンス(man the playful)の一歩一歩を今後も進めて行くだろう。ヒトはそんなホモサピエンス(man the wise)だと信じたい。

1) Charles Darwin: On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life (1st ed. 1859);
ダーウイン著、八杉龍一訳「種の起源」上、下(岩波文庫, 1990)

2) Stuart A. Kauffman: The Origins of Order, Self-Organization and Selection in Evolution (1993).
一般向には、同じ著者の At Home in the Universe (1995) がある。

3) E・マイヤー著、養老孟司訳:ダーウイン進化論の現在(岩波書店, 1994)

4) 今西錦司著:進化とはなにか(講談社学術文庫)

5) 木村資生著:生物進化を考える(岩波新書, 1988);分子進化の中立説(紀伊国屋書店,1986)

6) ジェイムズ・グリック著、大貫昌子訳:カオス−新しい科学をつくる(新潮文庫,1991);
P・ベルジュ、Y.ポモウ、Ch・ビダル著、相澤洋二訳:カオスの中の秩序(産業図書,1992)

7) R.M.May: Nature 261 (1976) 459-467.

8) シュレーディンガー著、岡小天、鎮目恭夫訳:生命とは何か(岩波新書, 1951)

9)実は逆さ富士の頂点。0と1が丁度半々になる状態が一番広い裾野。このような2次元の状態空間はたとえ話だ。N遺伝子系ではある格子点の状態に対して1遺伝子だけ違った状態はN−1個あるから、状態空間は2次元ではなくて、N−1次元の空間である。こんな超空間は想像不可能だから、平面上に山やら谷やらをイメージしたわけだ。だからインチキに違いない。しかし、山あり谷ありの地形図は比喩として使ってよい。

10) 相互作用の考慮。K=2の場合を例にとってみる。a遺伝子に影響を与える遺伝子(入力遺伝子)をb、cとすると、b、cの採りうる状態は(00)、(01)、(10)、(11)の4通り、これにaの状態、0,1を組み合わせると、a,b,cの組では(000)、(001)、(010)、(011)、(100)、(101)、(110)、(111)の8通り(2K+1)になる。これらの各々に乱数を振る。N個のゲノム系の中で、2入力遺伝子b、cと受ける遺伝子aの組合わせについては、これら以外の遺伝子がどんな状態にあろうとも、a遺伝子の適応度寄与wには上記8通りの組合わせ応じた乱数を入れる。だから、Kが小さい程、同じw値が増えることになる。K=0の場合には、他のすべての遺伝子の状態に関係なく、各遺伝子毎にwは2つの乱数で足りる。K=N-1の場合にはすべてのwは別々の乱数になる。細菌の遺伝子間相互作用や制御作用はF.Jacob とJ.Monod によって1960年代に実験的に証明されている。集団遺伝学ではこういった遺伝子間相互作用をepistatic interaction という。しかし、それを一般的に取り扱う理論はカウフマンが始めてである。

11) 宇宙のビグバーン以来150億年とすると、秒になおして1017で、10−11秒つまり 10ピコ秒に1回の割合で探索せねばならない!

12) カンブリア紀(5.6-5.0億年前) には現存する32門より多い門の多様な生物が爆発的にうまれたと推定されている。その後多くは絶滅したが、このときには先ず形態の著しく違っている門がうまれ、次いで綱→目→科→属→種 とトップダウンで分岐していったとされる。一方、ペルム紀(2.8-2.4億年前)末には大量の種の絶滅があったが、現存の門のメンバーは生き残った。この絶滅の後のリバウンドでは種→属→科とボトムアップで多様性が創られた。しかし、新しい目、綱、門は出来なかったとされる。

13) カウフマンは蛋白質の進化として捉える。

14) 例えばλファージ。M.Ptashne: A Genetic Switch Phage and Higher Organisms (1992).

15) 例えば油槽に浸けたバネ振り子。そのままだと抵抗が大きいのですぐに止まってしまう。しかし外から周期的な力(従ってエネルギー)を加えてやれば、その周期に同調した振動を続ける状態が実現する。リミットサイクルの簡単な例である。その他いろんなタイプのアトラクターがあるが、カオスではストレンジアトラクターと称して永久に閉じないアトラクターが実現する。それでは全くのでたらめ状態ではないか、という疑問が出てくるが、両者は違う。カオスでは、経巡る状態は全状態空間の中で一部の領域に限られているが、全くのでたらめでは時間を無限に掛ければ、すべての状態を経巡る。一口に無秩序といっても、こんな違いがある。複雑系をいじりはじめてこんなことがやっと具体的にはっきりしてきた。K=3以上の場合、初期条件敏感性は指摘できるが、カオスかどうかは完全には分かっていない。

16) 自己組織化でK=2の特異性は、スイッチング・ルールが特異的なためであることが分かってきた。例えばKがどんな値であろうと、入力やそれを受取る要素の状態に無関係に1(or 0)と応答するルールであれば、全ての要素は1(or 0) に固定してしまう。この場合100%の確率で終状態がきまるが、K=2の場合は可能な16通りのルールの中、8つは75%、2つは100%、後の6つは50%でトータルで69%と、50%に比べるとバイアスがかかっている。こういう強制力がK=2場合にはあるわけだ。バイアスの指標になる、この確率は、K=3、4、5、になるにつれて、低くなる。逆にK=3、4、5、であっても、適当なバイアスをかけてやれば、K=2の状態が実現できる。

(1999. March)

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