
1994年6月12日の夜11時前に飼犬の散歩に出たスティーブン・シュワブは、帰宅後飼犬の毛や足に血がついているのに気がついた。そこで散歩した経路を引き返してみると、ロサンゼルス・サウス・バンディ・ドライブ875番地のコンドミニアムの門前の血だまりと門内の階段上に男女の死体を発見した。午前0時過ぎに警察が到着し、まもなく死亡している女性はニコール・ブラウン・シンプソン (35歳) であることが判明した。男性はロナルド・ライル・ゴールドマン (25歳)、俳優を志望するイタリアン・レストランのウェイターだった。ロス市警殺人課の刑事フィリップスとファーマンは午前2時過ぎに到着した。
ニコールは頸部をほとんど切断されんばかりに切られ、後頭部に挫創 (鈍器損傷)、手には切創 (防御創) が認められ、解剖医は「犯人は右利きで、背後から頸部をかき切った」と推定した。服には流血が付着していたが、両足には血がついておらず、現場が血まみれになる前に殺害されたものと考えられた。ゴールドマンには顔、頸部、体と左大腿上部に合計19個の刺創が認められ、全身血まみれだった。やはり後頭部に著明な挫創があり、背後から襲われたと考えられた。2人の損傷が類似していること、現場に1組の血の足跡があったことから、単独犯による凶行と推測された。ニコールの死体の傍らに、1組のコンタクトレンズが入った封筒と、カシミヤで裏打ちされた高価そうな革手袋 (左手用のみ) が落ち、いずれも血痕がついていた。
ニコールは、オレンサル・ジェームズ・(O.J.) シンプソンの前妻だった。シンプソンは元アメリカン・フットボールの名選手で、1979年に引退した後はスポーツ・キャスターとして活躍していた。ニコールはビバリーヒルズのナイトクラブでウェイトレスとして働いていた18歳の時に30歳のシンプソンと出会った。8年後、1985年にシンプソンは最初の妻と離婚してニコールと再婚した。しかしシンプソンの家庭内暴力のため、1992年にニコールは2人の子供を連れて離婚したものの、その後も嫌がらせを受け、殺人の1月前にはニコールはシンプソンに「お前が別の男と一緒にいるのを見たら殺す」と脅されている。
シンプソンはオセロ症候群に罹患していると考えられている。オセロ症候群とは偏執狂的精神病のひとつで、配偶者に対する強い嫉妬心と不貞妄想が特徴的で、しばしば暴力行為を起こす。一方のニコールは離婚後多くの男性と付き合い、ゴールドマンとは数ヶ月前から友人として交際していた。ゴールドマンは 180 cmの長身で、マーシャルアーツ (格闘技の一種) の達人でもあり、体格や腕力の勝る男性でなければ彼の殺害は不可能であろうと考えられた (シンプソンは身長 185 cm)。
朝5時頃に刑事が現場から約2マイル離れたシンプソンの自宅を訪ねたところ、家の前の路地内にシンプソンの車フォード・ブロンコが停めてあり、その運転手側のドアに血痕が付着していた。家の中には友人のカトー・カエリンと娘のアーネル・シンプソンがいただけで、シンプソンは午後11時前にシカゴ行きの飛行機に乗るために車で出たということだった。まもなくシンプソンの行先がシカゴのオハラ・プラザ・ホテルであることが判明した。
シンプソンの家のゲスト・バンガロー (カエリンが泊まっていた棟) の裏庭の通路上に革手袋 (右手用) が発見されたが、死体発見現場で見つかった革手袋と対を成すものだった。また、フォード・ブロンコ内部の運転手側のドアと助手席のコンソール上にも血痕が見つかった。
当初は明確な証拠がなかったので、まず刑事はシンプソンに任意で事情聴取をした。シンプソンは死体が発見された日に手を怪我し、その時の血がフォード・ブロンコについたと供述した。その後指紋が記録され、男性看護師によって血液が採取され、抗凝固剤EDTA (エチレンジアミン四酢酸) を添加して警察に保管された。看護師はこの時の採血量を記憶していなかったが、通常 8 ml採血するところ、警察には 6.5 mlしか保管されていなかった。
シカゴのオハラ・プラザ・ホテルのシンプソンが泊まった部屋のバスタブ内に割れたコップが見つかり、前日怪我した手の傷をこのガラス片で再度切ったとシンプソンは述べた。シンプソンの家の寝室からは血のついたソックスが発見された。また、事件が発生した時間に25分間ほどシンプソンはかかってきた電話に出ておらず、同じ頃、フォード・ブロンコを運転している姿も目撃されていた。しかし目撃した女性は後に5000ドルをもらって目撃証言を拒否している。
シンプソンの家で発見された手袋にはシンプソンのだけでなく2人の被害者の血痕もついていたことがDNA鑑定で判明した。自宅と犯罪現場でペアの手袋が発見され、現場で発見された血の足跡はシンプソンの足のサイズと一致し、事件当時のアリバイがないなど、多数の物的証拠と状況証拠がシンプソンを犯人だと示唆した。ついに6月17日にシンプソンの逮捕状が交付されたが、シンプソンは制止も聞かずにフォード・ブロンコで逃走し、その様子をメディアがヘリコプターから撮影し、全米にテレビ放送されるというハプニングとなった。午後8時前に車はシンプソンの家に着いたが、警察のSWATチームや多数の報道関係者に取り囲まれた。午後9時前にシンプソンはようやく車から降り、逮捕された。車中にはパスポート、マグナム・レボルバー拳銃と8000ドルの現金があった。シンプソンは無実を訴えた。
裁判は1995年1月24日から始まった。裁判官は日系人のランス・A・イトウで、警察幹部のペギー・ヨークの夫でもあった。ロスの司法当局は、ロドニー・キング裁判とこれが引き金になったロス暴動 (1992年、黒人男性ロドニー・キングが白人警官4人から暴行を受け、その状況のビデオが公開されたが、警官は白人住民の多いシミ・バレーで裁判を受けて無罪となり、黒人住民が暴動を起こした) の経験から、人種差別問題が争点になることを予想して白人でも黒人でもないアジア系の判事を指名したものと思われる。事件の発生場所からロス地裁サンタモニカ支部が本来の管轄であるが、陪審員は管区の人口動態比で決められるため、検察側は白人優位のサンタモニカを避け、裁判管区をロサンゼルスのダウンタウンに変えた。ここなら陪審員中の白人の比率は40 %となる。最終的に陪審員12人の構成は、黒人8人、中南米系2人、白人1人、白人とインディアンの混血1人で、黒人が絶対多数を占めた (年齢23〜73歳。大卒2人、高卒9人、中卒1人)。さらに検察は有罪になっても死刑を求刑しない旨を宣言した。
シンプソン側の弁護団は、ロバート・シャピロを筆頭に11人の高名な弁護士 (DNA鑑定の専門家2名含む)、補佐する弁護士5人と多数のスタッフで構成された。主席検事はマーシャ・クラークで、検察側にとって山ほどもある物的証拠と状況証拠から裁判は楽勝と考えられた。それに対し弁護団の戦略は、「白人の支配する司法システムの犠牲となった黒人被害者の救済」ということに尽きた。ただしシンプソンは白人女性と結婚し、白人社会で成功していたので、黒人の象徴とはとても言えなかったが。
裁判で検察側は、シンプソンは離婚後もニコールに執拗につきまとい脅迫していたこと、殺害推定時刻 (午後10時15〜20分) のアリバイがないこと、凶器と考えられるナイフを40日前に購入していること、そして現場の血痕等のDNA鑑定からシンプソン以外が犯人ではあり得ないと主張した。
DNA鑑定結果は以下の通りである (一部未確認データを含む)。D1S80、HLA-DQα型はPCR (ポリメラーゼ連鎖反応) 法で増幅し型判定されるDNA型。MS1、MS31などはRFLP (制限酵素断片長多型) で検査するが、DNA量を多く必要とするため、検査できる資料が限られる (DNA鑑定のページ参照)。
| 資料番号と概要 | D1S80* | HLA-DQα* | 型が一致する人物とその他の検査結果 |
| シンプソン (OJ) の型 | 24,25 | 1.1,1.2 | 血液型:ABO*A,EAP*BA,ESE*1,PGM*2+2- |
| ニコール (NB) の型 | 18,18 | 1.1,1.1 | |
| ゴールドマン (RG) の型 | 24,24 | 1.3,4 | |
| 犯罪現場 (ニコールの家) の血痕 | |||
| 47 被害者の傍ら | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 48 小道上 1 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 49 小道上 2 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ 血液型ABO*A,EAP*BA,ESE*1,PGM*2+2- |
| 50 小道上 3 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ 血液型ABO*A,EAP*BA |
| 52 小道上 4 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ 血液型ABO*A,EAP*BA,PGM*2+2- OJ MS1,MS31,MS43,G3,YNH24のDNA型も一致** |
| 56 血の足跡 | 18 | NB | |
| 78 RGの靴上 | 18,24 | NB, RG (混合) | |
| 115 後門 1 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 116 後門 2 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 117 後門 3 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ D1S7,D2S44,D4S139,D5S110, OJ D10S28,D17S79のDNA型も一致** |
| フォ−ド・ブロンコ車内の血痕 | |||
| 24 計器盤上 | 1.1,1.2 | OJ | |
| 25 運転手側カーペット上 1 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 29 ハンドル上 | 1.1,1.2,(4) | OJ, NB (混合) | |
| 30 中央コンソール上 1 | 24,25 | 1.1,1.2,(4) | OJ |
| 31 中央コンソール上 2 | 24,25 | 1.1,1.2,(1.3,4) | OJ, RG (混合) |
| 34 運転手側壁 | 1.1,1.2 | OJ | |
| 293 運転手側カーペット上 2 | 18 | 1.1,1.1 | NB |
| 303 中央コンソール上 3 | 18,24,25 | 1.1,1.2,1.3,4 | OJ, NB, RG (混合) |
| 304 中央コンソール上 4 | 18,24,25 | 1.1,1.2,1.3,4 | OJ, NB, RG (混合) |
| 305 中央コンソール上 5 | (18,)24,25 | 1.1,1.2,1.3,4 | OJ, NB, RG (混合) |
| シンプソンの家の中の血痕 | |||
| 6 室内 1 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 7 室内 2 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 12 玄関 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ MS1,MS31,MS43,G3,YNH24のDNA型も一致** |
| 14 浴室の床 | 1.1,1.2 | OJ | |
| シンプソンの家で発見された手袋の血痕 | |||
| 9 手首前面 | 1.1,1.3,4 | NB, RG (混合) | |
| 9:G1 示指 | 18,24 | 1.1,1.3,4 | NB, RG (混合) |
| 9:G2 中指 | 18,24 | 1.1,1.3,4 | NB, RG (混合) |
| 9:G3 環指 | 24 | 1.3,4 | RG |
| 9:G4 手掌 | 18,24 | 1.1,1.3,4 | NB, RG (混合) |
| 9:G9 手首前面切込 | 24 | 1.3,4 | RG |
| 9:G10 手首切込側面 | 24,(25) | 1.2,1.3,4 | RG, OJ (混合) |
| 9:G11 手首背面切込近く 1 | (18,)24,(25) | NB, RG, OJ (混合) | |
| 9:G12 手首背面切込近く 2 | (18,)24 | NB, RG (混合) | |
| 9:G13 手首切込縫い目 | (18,)24,(25) | NB, RG, OJ (混合) | |
| 9:G14 袖口縁前面 | (18,)24 | NB, RG (混合) | |
| シンプソンの家の寝室で発見されたソックスの血痕 | |||
| 13 足首部分 | 18 | 1.1,1.1 | NB MS1,MS31,MS43,G3,YNH24と NB その他11種類のDNA型も一致** |
| 13 下腿対側 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 13 下腿同側 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 13 つま先上部 | 24,25 | 1.1,1.2 | OJ |
| 13 足首近く 1 | 18 | 1.1,1.1 | NB |
| 13 足首近く 2 | 18 | 1.1,1.1 | NB |
これに対し弁護団は、シンプソンには新しいガールフレンドが既にいたこと、殺害推定時刻を午後10時45〜50分とし、50分過ぎに自宅に戻っているためアリバイがあること、凶器は発見されていないので特定できないこと、そして現場の血痕採取方法に問題があり、シンプソンの血液が警官により現場にばらまかれたのだと、一貫して警察の捜査ミスと人種差別主義者の刑事のでっちあげを主張して印象づけた。そして弁護側は女性シナリオライターのローラ・マッキニーを召還した。彼女はファーマン刑事に以前インタビューを行っていたが、ファーマンは日常的に黒人差別用語を連発しており、それを録音したテープがテレビ放送され (一部は陪審員の前で公開)、全米に大きな衝撃を与えた。
1995年10月3日、陪審員は全員一致で無罪を評決した。
これに対し1996年10月23日から、ニコールやゴールドマンの遺族達が民事で慰謝料請求裁判を起こした。陪審員12人の構成は、白人9人、黒人1人、中南米系1人、黒人とアジア系の混血1人で、白人優位であり、かつ学歴もより高かった。1997年3月10日にシンプソンは今度は有罪となり、850万ドルの補償賠償支払命令と2500万ドルの懲罰賠償支払命令が出され、家財道具が差し押さえられた。
刑事裁判と民事裁判の違いのひとつは立証責任の程度の差である。当然、刑事裁判では検察側が有罪を100 %証明しなければならない。民事裁判では証拠的に有利な方が勝訴する。また、陪審員制度も刑事裁判では全員一致、民事裁判では多数決という違いもある。もちろんこの事件では陪審員の人種の差の比重も大きく、陪審員制度の是非も議論された。
DNA鑑定結果は圧倒的にシンプソン有罪を示している。ただしDNA鑑定がいかに正確でも、現場の捜査・証拠の採取が警察の仕事であることは日本もアメリカも同じであり、証拠採取の段階で警察による偽装を疑われては何も判断できなくなる。これだけ多数の証拠を一部の警官だけで偽装できたとはとても考えられないが、最先端の科学も人種問題など社会的問題の前では無力である。