
ナポレオン・ボナパルト (後のフランス皇帝ナポレオン1世) は1769年8月15日にコルシカ島アジャクシオに生まれた。幼年学校卒業後、ジャコバン派砲兵少尉としてフランス革命に参加し、1795年には総裁政府の要請でバンデミエールの反乱を鎮圧した。1796年にイタリア征討司令官となってオーストリア軍を破り、ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネと結婚。1798年にエジプトへ遠征するが、翌1799年にシエイエスとともにブリュメール18日のクーデターを起こして総裁政府を倒し (フランス革命の終焉)、統領政府を樹立して自ら第一統領となった (第二統領はカンバセレス、第三統領はルブラン)。1802年には終身統領となり、1804年12月2日に帝位につき第一帝政を開いた。
その後、周辺諸国との戦争で次々と勝利をおさめ、帝国領土を拡大していくが、1812年のロシア遠征でモスクワより撤退。1813年にはイギリス、ロシア、プロイセン、オーストリアなどが第6次対仏大同盟を結成し、フランス軍は各地で敗戦する。1814年3月31日に連合軍がパリへ入城し、ナポレオンは4月6日に退位してエルバ島に流された。
しかしナポレオンは翌1815年3月1日にエルバ島を脱出し、20日にパリに戻って再び帝位についた (百日天下)。フランス軍はベルギーへ進軍するが、6月18日にワーテルローの戦いに敗れ、10月15日に南大西洋のセントヘレナ島へ流刑された。
ナポレオンに同行してセントヘレナ島へ行ったのは、シャルル・トリスタン・ド・モントロン伯爵と妻のアルビーヌ、アンリ・グランティエ・ベルトラン伯爵と妻のファニー、エマニュエル・ラス・カーズ侯爵、ガスパル・グールゴ男爵、10年来の召使ルイ・マルシャン、バリー・オメアラ医師、フランシスコ・アントマルキ医師らである。このうちアルビーヌ・ド・モントロン伯爵夫人は1819年に女児ナポレアーナを出産し、フランスへ戻っている。
ナポレオンは1820年の秋頃より体調を崩し、胃の上部痛と食欲不振、嘔気、嘔吐、しゃっくり (横隔膜の痙攣)、乏尿、嗜眠、発熱、下痢、便秘、腹部の痙攣、過度の衰弱、強い発汗、循環器系の異常を訴え始めた。翌年4月にナポレオンの健康はさらに悪化し、英国軍医のアーノット医師に助けを求めた。アーノット医師は5月3日、アントマルキ医師の反対にもかかわらず64.8グラム (通常の5倍量) のカロメル (甘汞。塩化水銀の白い粉末で下剤や腸の消毒剤として使われる) をナポレオンに服用させた。その5〜6時間後に腸出血が起こり、黒い吐物とタール状便を出し、強い発汗と頻脈を呈した。そして元フランス皇帝は1821年5月5日午後5時49分に52歳で他界した。
ナポレオンの死後、その遺言に従ってアントマルキ医師と5人のイギリス人医師によって遺体が解剖された。解剖所見として記録されたのは、出血を伴う胃潰瘍と慢性胃炎の所見、肝臓の肥大である。胃粘膜の腫瘤や胃周囲のリンパ節へのガン細胞転移は観察されていないが、最終的に死因は胃ガンと診断された。ナポレオンの父、シャルル・ボナパルトも胃ガンのため同じ症状を示し、1785年2月24日に39歳の若さで死亡している。
ナポレオンの遺体は当初島内のゼラニウムの谷に埋葬されたが、1840年にフランス議会が遺体のパリ移送を採択し、同年12月15日に棺はパリ・廃兵院に安置された。
ナポレオンが胃ガンによる病死でなく砒素中毒で死亡したことを最初に提唱したのはスウェーデン人の歯科医・中毒学者であるステン・フォーシュフットで、1955年にルイ・マルシャンが発表した手記を読んでナポレオンの晩年の症状から発想し、1961年に科学雑誌ネイチャー (10月14日号) と著書「誰がナポレオンを殺したか?」で発表した。中毒説の傍証としてあげられたのがナポレオンのセントヘレナ島での病状で、これを慢性砒素中毒の症状と考えた。さらに解剖後に採取されたというナポレオンの遺髪を入手し、グラスゴー大学の法医学研究室でハミルトン・スミス博士の協力を得、当時最新のニュートロン・テクノロジーで遺髪中の砒素濃度を分析した。
多くの毒物は有機化合物であり、中毒で死亡した人の遺体中の毒物は時間とともに分解され失われていく。しかし砒素は元素であるため自然に分解されることはなく、古い遺体 (白骨死体など) や遺髪から元素分析で検出することが可能である。砒素は自然界に存在するのである程度の量は自然に体内に取り込まれているが、中毒死するほどの量であれば識別が可能である。グラスゴー大学での分析は70年代に完了し、その結果、ナポレオンが生存していた当時の健常人の毛髪中の砒素濃度が0.08 ppmであるのに対し、ナポレオンの遺髪数カ所から検出された砒素濃度は最高で51.2 ppm、最低で2.8 ppmと明らかに高濃度であった (毛髪は常に伸び続けており、毛髪のある部分の砒素濃度は、その部分が毛根で作られた時の体内濃度を反映する)。
毛髪中の砒素の由来として、当時よく使われていた緑色のシェーレグリーンという顔料を使った壁紙 (シェーレグリーンに砒素が含まれ、スコプラリオプシスというカビが蒸発しにくい無機砒素化合物を蒸発しやすい有機化合物に変え、その蒸気をナポレオンが吸引した)、セントヘレナ島の水、常用していたカロメルや整髪料中に含まれる砒素の可能性がこれまで検討されてきた。しかし日常的に砒素を摂取していれば毛髪中の濃度はほぼ一定になるはずで、毛髪の部位によって濃度が異なっていることは人為的な砒素投与、すなわち暗殺を示し、環境由来の砒素であればナポレオン以外の者にも砒素中毒の症状は表れるはずだとフォーシュフットらは考えた。
ナポレオンが自分の死後に解剖して死因を調べるようにと言ったのも、暗殺を予見してのことと推察した。
フォーシュフットのこの説は、カナダの実業家であり著名なナポレオン学者であるベン・ワイダーらの賛同を受け、同様の主張の著作物が近年に至るまで次々と発表されている。その中で、解剖所見で見出された胃潰瘍は死の2日前に服用したカロメルによって胃粘膜が腐食された痕跡で、肝臓の肥大は砒素中毒の典型的な症状である脂肪変性によるものと主張している。さらにワイダーはナポレオンの遺髪中の砒素の再鑑定をストラスブールの法医学研究所のパスカル・クンツ博士らに依頼し、2001年に通常の7倍から38倍の高濃度の砒素を検出し、あらためてナポレオンが生前に間違いなく砒素中毒だったと発表した。
ナポレオンが砒素で暗殺されたとしたら、犯人は当然セントヘレナ島にいたはずである。その中で最も疑わしいとされているのがド・モントロン伯で、その動機として、妻アルビーヌがナポレオンの情婦となったことへの嫉妬説 (女児ナポレアーナはナポレオンの子と推測。ただしナポレアーナの出生については異説があるし、アルビーヌは夫の同意を得て情婦になったという説もある) と、後のフランス国王シャルル10世 (在位1824〜30年) の密命を受け実行したという下手人説などがある。ド・モントロン伯は後にフランスに戻り、1840年初頭にルイ・ボナパルト (後のナポレオン3世) に接触し取り入ろうとしたが、当時のフランス国王ルイ・フィリップ側に捕らえられて20年の懲役刑を受け、1853年に死亡した。
上述のナポレオン砒素中毒−毒殺説には当初から異論が唱えられた。いわく、砒素はやはり環境由来であり、その根拠としてアルビーヌ・ド・モントロン伯爵夫人の遺髪からも高濃度の砒素が検出されている。経口投与、すなわち服毒による砒素中毒であれば皮膚の色素沈着と角化症が必ず発症するが、これらの所見はナポレオンには全くみられない。解剖所見で胃に腫瘤がなくリンパ節転移もないが、ナポレオンの胃ガンはスキルス胃ガンで典型的な潰瘍性胃ガンであり (腫瘤を形成せず、胃壁内部に浸潤する)、進行ガンではあるが末期状態ではなく、転移はまだ起こっていなかった。カロメルで腐食されれば食道下部や胃の雛壁がおかされるが、そのような所見はない。肝臓は軽度肥大しているが、脂肪肝とする根拠はない。砒素中毒の症状と考えられる諸症状 (腹痛など) は胃ガンの症状と考えてもまったく矛盾がない。…以上のような理由で、死因はやはり胃ガンであり、直接死因は胃ガンの合併症の消化管出血で、死の2日前の過剰量のカロメル服用が死のきっかけになった可能性はあるが、それは暗殺ではなく医療事故である、と、毒殺説に反対する学者たちは考えている。
ナポレオンが自分の解剖を命じたのも、暗殺を疑っていたからではない。父が胃ガンで死亡し、自分も同様の症状で苦しんでいるので、子孫のために胃ガンの遺伝性を証明したいと考えていた可能性がある。胃ガンは明らかな遺伝性ではないが遺伝的素因はあり、コルシカ島を含むイタリアの胃ガン発症率がフランスの2倍であることも指摘されている。
さらに2002年に、パリ警視庁毒物学研究所のリコルデル所長らが生前 (セントヘレナ島へ流刑される前の1805年と1814年) と死後 (1821年) に採取されたナポレオンの毛髪を調べたところ、どの試料からも15〜100 ppmの高濃度の砒素が検出されたと発表した。つまり、流刑後にナポレオンが高濃度の砒素を盛られるようになったわけではなく、かなり以前から (おそらく環境由来の) 砒素を体内に摂取していたということである。この事実はセントヘレナ島での砒素による毒殺説を真っ向から否定する。しかし毒殺説を支持する人々はその結論に納得していない。
検査した毛髪が本当にナポレオンのものかどうかも確認されたわけではなく、遺体を掘り出してDNA鑑定で照合する必要があると主張する人もいる。本当に胃ガンであったかどうか、遺体を現代の医学機器で検査すれば診断できるかもしれない。しかし遺体の再発掘は長年許可がおりず、ナポレオンの死因論争に決着がつく目処はたっていない。