チャップリンの親子鑑定

 チャールズ・スペンサー・チャップリンは1889年4月16日にイギリスのロンドンで生まれたが、後にアメリカのハリウッドへ移り、1914年、24歳の時に映画「成功争い」Making a Living で主役をつとめたのを皮切りに多数の映画の主演、監督を行って、無声映画時代の最も成功した喜劇俳優となった。

 1914年の2作目の「ベニスの子供自動車競争」Kid Auto Races at Venice であの独特のスタイルを確立し、1916年の「チャップリンの大酔 (午前1時)」One A.M.、「チャップリンの番頭」The Pawnshop、1917年の「チャップリンの勇敢」Easy Street、「チャップリンの移民」The Immigrant、1918年の「抱え銃」Shoulder Arms、「犬の生活」A Dog's Life などの映画で国際的な名声と富を得、1919年、29歳の時にD・W・グリフィスとともにユナイテッド・アーティスツ社を設立した。

 その後、「キッド」The Kid (1921年)、「巴里の女性」A Woman of Paris (1923年)、「黄金狂時代」The Gold Rash (1925年)、「サーカス」The Circus (1928年。アカデミー賞受賞作)、「街の灯」City Lights (1931年、初のサウンド版。同年パリでレジオン・ドヌール5等勲章を受勲)、「モダンタイムス」Modern Times (1936年)、「独裁者」The Great Dectator (1939年。この作品によりルーズベルト大統領にホワイトハウスへ招待される) などの名作を発表し、その地位を不動のものとした。


 同時にチャップリンは10代の若い女性への執心も強く、4回の結婚をし、結婚外の浮き名も数多く流している。

  1. 最初の結婚は1918年、28歳の時で、相手は16歳のミルドレッド・ハリス。2年後に離婚。

  2. 2度目の結婚は1924年、34歳の時で、相手は同じく16歳のリタ・グレイ。「キッド」で12歳の時に目をつける。2子をもうけ、3年後に離婚。

  3. 3度目の結婚は1936年、46歳の時で、相手は19歳のポーレット・ゴダード。6年後に離婚。

  4. 4度目の結婚は1943年、53歳の時で、相手は劇作家ユージン・オニールの娘で18歳のウーナ。生涯連れ添い、8子をもうける。

 女優のジョーン・バレイは1941年6月にチャップリンが雇用したが (当時のジョーンは22歳)、関係が悪化して翌年の5月22日で契約を破棄した。1942年12月23日にジョーン・バレイは拳銃を持ってチャップリンの家に押し入っている。

 1943年6月4日にジョーンは、懐妊中の子供の父親をチャップリンとして訴え出た。同年10月2日にジョーンは女児、キャロル・アンを出産。1944年2月にチャップリンは、ジョーン・バレイの市民権侵害、買春とマン法 (売春目的で女性を別の州へ移すのを禁止した1910年の法律) 違反の嫌疑をかけられた。

 マン法違反容疑は後に裁判で無罪となるが、ジョーン・バレイから訴えられた認知請求事件については、チャップリンは裁判が始まる前に血液型を調べて親子鑑定を行っている。その結果は以下の通りである。

血液型 ジョーン (母) キャロル・アン
(子)
母子から判定される
真の父の型
チャップリン父子関係の矛盾
ABOABBまたはABOあり
MNNNMNまたはNMNなし

 当時既にABO式およびMN式血液型の遺伝様式は判明しており、ABO式血液型の検査結果はチャップリンが父であることに否定的であった。しかしジョーン・バレイは訴えを取り下げず、世間に「チャップリンが血液型検査で不正を働いた」という噂が飛び交う中で、1944年12月13日に最初の裁判が始まった。12人の陪審員の評決は7対5でチャップリンに好意的で、結局陪審員の意見不一致で、未決定審理として終了した (結論出ず)。

 1945年4月4日に2度目の裁判が始まり、その場でジョーン・バレイの弁護士ジョセフ・スコットは、チャップリンを好色なハゲタカ、ドヤ街の放蕩者になぞらえて非難した。当時のカリフォルニア州では血液型が証拠としてまだ認められていなかったこともあり、同年4月17日の陪審員の評決は11対1で「チャップリンに扶養義務あり」となった。同年6月6日の判決で、チャップリンはキャロル・アンが18歳になるまで週75ドルの養育費を払うよう言い渡された。チャップリン55歳の時である。


 また、チャップリンは、左翼寄りの自由主義思想の持ち主として1920年代頃からFBIに目をつけられていたが (実に2060ページに渡るファイルがFBIに保管されている)、第2次世界大戦後の冷戦状況下で反共運動の標的となり、1947年、57歳で「殺人狂時代」Monsieur Verdoux を公開した時、上映の拒否や妨害、国外追放のための公聴会などが起こされた。1952年、62歳の時に「ライムライト」Limelight 公開のためにロンドンへ行って熱狂的歓迎を受けるが、アメリカへの再入国を拒否され、結局スイスのローザンヌへ転居した。1957年に公開した「ニューヨークの王様」A King in New York は最後の主演作であるが、アメリカへの皮肉が込められ、アメリカ本土では1973年まで公開されなかった。

 最後の監督作品は1967年の「伯爵夫人」A Countess From Hong Kong である。その後アメリカへは1972年、82歳の時にアカデミー特別功労賞を受賞しに1回渡米したきりとなった。1975年にイギリスでエリザベス2世にナイトの称号を受けているが、思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている。1977年12月25日にローザンヌの自宅で88歳で死亡した。死後、チャップリンの遺体は身代金目的で墓地から盗み出されたが、墓地の近くのトウモロコシ畑で発見された。


 さて、上述の親子鑑定の話に戻るが、従来よりこの裁判に関しては、「血液型で科学的に完全に否定されたのに、女性遍歴をくり返すチャップリンへの怒りとして、実子でなくてもその哀れな子を扶養すべきだと宣告された」ことになっている。はたしてその通りであろうか?

 当時はもちろんDNA鑑定はなく、また、知られている血液型の種類も少なかった。従って仕方のないことではあったが、基本的にABO式とMN式の2種類の血液型だけで親子鑑定を行うのは無謀である。実子でない場合に、この2種類の血液型のいずれかで否定的結果が出る確率 (排除率) は 30.82 % (日本人なら 34.39 %) で、3件のうち2件は親子として全く矛盾のない結果が出るからである。

 チャップリンがABO式血液型で否定的結果を得たのは幸運と言わざるを得ない。しかし現代の親子鑑定では孤立否定 (1種類の血液型またはDNA型でのみ親子関係が否定されること) では親子関係を否定できない。たまたまその血液型 (またはDNA型) に突然変異 (組換) が生じていて、真の親子なのに矛盾した結果が出る可能性がわずかながらも存在するためである (よくある質問の回答「本当の親子なのにABO式血液型があわないことがありますか」参照)。

 要するに、2〜3種類以上の血液型・DNA型で否定されれば親子関係を否定でき、それ以外の場合は否定できないと、結論は明確に2分されている。ABO式とMN式血液型の両方で、実子でない子との親子関係が否定される確率はわずか 2.7 % (日本人なら 3.6 %) で、37人のうち36人は無実を証明できない。

 否定できない場合は検査項目を増やして精度を高め、それでも否定できない場合は父権肯定確率を計算し、その値を目安として親子関係を肯定する。突然変異が疑われる場合は、遺伝子解析をしてその証明を試みるが、現実問題としてその証明が非常に難しい場合や不可能な場合が多い。

 チャップリンの事例ではABO式血液型1種類でしか否定的結果が得られていないので、科学的にはキャロル・アンとの父子関係は否定できない。当時の技術的限界でその他の血液型を検査できなかったのであれば、評決は状況に基づく陪審員の心証で決めざるを得ず、真実はともあれこの判決が不適切であったとは言い切れない。


 なお、真実は不明だが、キャロル・アンの真の父親はJ・ポール・ゲティという男であったと言われている。ジョーン・バレイが自分の娘を裕福な男に後見させようともくろんだとしても、週75ドルの養育費は当時としても高額であるとは言えない (1915年の時点でチャップリンはエッサネイ社と週給1,250ドル+ボーナス10,000ドルで契約していた)。ジョーンは1953年に州立の精神病院に入院し、キャロル・アンは親戚に育てられた。

2003.2.17
参考文献:赤根 敦「DNA鑑定は万能か−その可能性と限界に迫る」 DOJIN選書31 (2010).
参考サイト:The Charlie Chaplin FBI File
Classic Movie Star's Charles Chaplin Tribute
The Lucky Tramp
Charles Chaplin
Chaplin's long wait for a knighthood
Charlie Chaplin & Oona O'Neill
ヒンケルの演説

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